集まって読書、寄り合って映画

 7日、自分で企画した読書会@三田へ。その名も「20世紀英文学読書会」。細々とやっていく予定です。
この日は初回で、D.H.ロレンスの"England, My England"の1915年版(狙ってなかったけど100年前!)を。参加者は3年生女子2人。一人はウルフ、もう一人はモームで卒論。鋭い指摘がいくつも飛び出すのでたじたじしながら論点を整理したり、しなかったり(こういうのもきっと大事)。学部の卒論はロレンス研究者に指導してもらったこともあったので、そこから仕入れた僅かばかりの知識を披露してみる。研究対象とロレンスの関係性も書きたいし、ほどよくロレンスも押さえていかねば。

 読書会後は「塾員」しか入れない万来舎で歓談。僕も一応OBですから、ふふ。この日は母校の入試がキャンパスで行われていたこともあってか(高校と大学での2ヶ所開催でなのである)、いつも(70歳くらいのおじいさんが二人でのんびりと「交歓」している)より賑わっていた。客層も若い。きっと受験生の父母に出身者が多いのだろうのと3人でいささかげんなりしながら(?)予測。この賑わいのせいで、ケーキの選択肢が少なくなっていた。ガトーショコラを後輩に譲り、ショートケーキに落ち着く。

 次回はボウエンの「幻のコー」を読むことに。今後もその時々の参加者で相談しながら、テクストを決めていきますので、もしご興味ある方がいましたらぜひ。



 13日。バレンタイン前日、13日の金曜日。学部のときに属していた映画ゼミの先輩I氏の呼びかけで「映画会」なるものに久しぶりに。主催者のお友達が6人集まり、計7人。フレデリック・ワイズマン『チチカット・フォーリーズ』@渋谷ヴェーラ。初ワイズマン。現地でゼミで同学年だったM田くんに遭遇した。
 本作品は矯正院のドキュメンタリーである、とひとまずは言える。矯正院の悪質な「実状」がスクリーン上に映し出されるわけだが、これって暴露を目的としてるわけじゃないよね、となんとなく思う。社会派的な側面があるのは否定できないだろうけども、むしろ映像とか音で「作品」として成り立っている部分が大きいと感じた。たとえば、細部を覚えていないが、食事を拒否した患者にチューブで栄養補給を図るというショークェンスに2、3回ほど挿入される同患者の納棺のシーンは大半の人間にとって最も異様な箇所として記憶されるのではないだろうか。「過去の未来」が唐突に現れるという編集ってあんまりないよねえ。フィクションでもできるのだろうか(あるいはフィクションではそのように編集して何かおもしろいところはあるのだろうか)−−とか書きつつ、ああ「フラッシュフォワード」か、と思い出す(や、でも、ちょっと違う?)。具体例は思いつかないけど、というか思うつかないから物語性を排したドキュメンタリー映像ならではの「物語」とか言えちゃうかしら(適当)。患者が脅迫的に語る内容も、その異様さ(この言葉なんだか便利だな)に慣れてしまえば、耳に心地良くなってしまうのもこの作品の醍醐味なのだろうか。

 映画の後はご飯を食べに。ビールの種類の豊富なお店がすし詰め状態だったのでワインのお店へ。やっと主催者I氏がそれぞれの参加者をどうやって出会ったかを含めながら紹介し始める。そうそう、僕とI氏は映画ゼミの初期段階で同じグループに入っていたのだった。最初の発表ではI氏が『七人の侍』を、僕が『オズの魔法使』を担当した。そのときにS先生がまとめとして、「ぼくたちの人生って『七人の侍』みたいな完璧な人材を伴うよりも、『オズ』みたいな油の足りないギスギスしたブリキとか臆病なライオンみたいな仲間とうまくやっていくもんなんですよ」という話をしたことを自分のことかのように得意げに披露するI氏。たかだが紹介で喋り過ぎと周りに釘を刺されていた。
 ほろ酔いしながら、I氏の8月(!)の失恋をひとしきりみんなでいじった後に、解散。ぼくは池袋で終電を逃す。