こまごまと2月のさいごの8日間のことを

 21日、なにか読もうにもどうにものめり込めないので、『あなたを抱きしめる日まで』(原題はPHILOMENA)を鑑賞。夏の学部ゼミ合宿で『小さいおうち』とか『贖罪』に触れながら興味関心の紹介を行った際にM先生に勧められていたのだが、機会を逃していた。準新作扱いになっていたので、やっとこさレンタル。たしかに、嘘(虚構)と老いの系譜に連なる作品であった。
 序盤はなかなかミスリーディングが巧みな作品だと思わされた(ミスリーディングといえば、邦題もそう?ちなみにDVDに入っていた予告編では『それでも夜が明ける』が。これも芸のうちか・・・)。
 批評的なことを言えば、反射して映るもののモチーフが重要そう、かつ美しくて「情景」と言うべき映像もあった(修道院の門を車でくぐるショット×二回)。そうそう、巧みなのは反復もか。主人公が二回訪れることになる場所があるのだが、そのシークェンスの1回目でドアが閉まるショットがわざとらしくて気になったが、先読み通り二回目で意味を持ったということで思わずにやり。ここまで抽象的に書くと、なぜか書いてきたことが自然と繋がる(あるいは書いて初めて自分が見出した複数の事態の間の繋がりが見えてくる)わけで、「ミスリーディング」「先読み」という言葉を素直に使った後に、この映画の中に「フラッシュフォワード」(ひとつ前のワイズマンのフラッシュフォワードに関する日記を参照)が挟み込まれていたことをはたと思い出すのである。正確に言うならば、「後に主人公が知る/見る過去の事実の先取り」であるので、純粋なフラッシュフォワードではないのだけれども。なにかとっかかりのある作品に触れたあとで、何気なく手に取った作品がこういう不思議な「つながり」を持っているというのは稀にあって、いっつも不思議だなあと思う。論じろってことですか、神様ん。
 ちなみに、本作品は事実に基づいた作品。そのことを踏まえると、最後の「赦し」と「罰」の場面がなかなか強烈。や、良い映画ですよ。全体的にミステリ仕立てかと思いきや、コメディを挟みつつ、ヒューマン・ドラマへと変貌していくので、ほどよい緊張と弛緩の塩梅といったところ。

 22日、日本文学全集刊行イベント@本郷。
→別稿で書きます。

 23日、久しぶりに大学キャンパスへ。このごろは家とその周辺で活動していることが多くて、その環境の中で、なんか作業効率が悪いなあ、なんて思ってたりもしたのだけど、キャンパスついて諸々の雑務をこなして、ふぅと息をつけば作業量のわりに全然時間が経っていないことに驚く。電車の時間をかけても、大学に来るべきか、ううむ。

 夜は急遽、むかし入っていたサークルの先輩(5人)や同級生(1人)がやってるバンドのHigh-Tunesのライブ@渋谷Lushへ。久しぶりに煙たい空間。危うく「副流煙で薫製」にされるとこであった。
 軽やかなリズムにつられて体を揺らしているうちに、アルコールが回る。声をかけてもらったが、酔いのせいで妙なやりとりにはなっていなかったか心配。「やつれたね」と言われる。

24日、某出版社のアルバイト面接へ。そののち、知り合いと飯田橋で待ち合わせ。時間が余っていたので、神楽坂を遊歩。ランチで利用したいお店がたくさん。


25日、比較的近くに住んでいる院の先輩お二人と食事。中華を食す。小平英文学会?Oさんは18世紀文学研究(スターン)、Mさんは19世紀末の思想とワイルド研究。ほんとうに優秀な方々で、話はすべて勉強になる。留学のこと(特にアメリカ事情)や修論のことをお聞きしたり、Mさんのちょっとマゾヒスティックでやんちゃな飼い犬やカフェでの勉強の話題を。とりわけ世紀末の話は聞くたびに勉強になるなあ。イギリスの思想・哲学もきちんと押さえなければ(ぼくって押さえないといけないことだらけ)。
 店員のおっちゃんに「疲れた顔してんね」と言われる。

26日、美容院へ。さっぱり。デコ出し。前髪下ろしてると福が入ってこないって中華屋のおっちゃんが前日言ってたのはあまり関係ない。
 のちに、新興宗教の講演会へ(文字通りではありませんよ、一応)。

27日、社会人のKさんとお食事。西麻布で串焼きを食す。通りからは発見しづらい店構えにいささかたじろぐ。牛、豚、鳥とあまりにも旨い肉だったので、自分の馬鹿舌が溶けてなくなってしまうかと思った。そして、締めに食べた親子丼は頬に穴をあけかねないダシの上品さと炭火の香り。ああこんな稚拙な文章でも書きながらつい涎がでる・・・。食事で「体力」を、会話で「知恵」をつけて頂きました。ごちそうさまでした。
 二軒目は甘いものをということでシナボン。なんだか悪さを働いているような気分になりましたとさ。

28日、ここのところ出かけっぱなしだったので、家で休養。やはり外にいるときより、捗らない。
『ロレンス研究』所収のS鳥さんという方の『チャタレー夫人の恋人』論を読む。『チャタレー』における第一次世界大戦の外傷化された記憶を読み込むというもの。本人の「誤読」体験が挟まれていて、そしてなんとそれが論につながっていて、ぐいぐいと読まされううむと唸らされるおもしろい論文であった。自分の研究的には「Postmemory」なるものがきちんと概念化されていたことを知れたのが収穫。まあ、「言うほどのことじゃないけど」感もある概念というか、名付けたあとどうすんの?というところが腕の見せ所だろうか。単なる経験/非経験の溝に加えて、「世代」の問題がより重要になるのかしら。これは自分の人生においても重要なテーマだ。
 S鳥さんの論文は読んでいて知識的に勉強になることが多く、その点では『英文学研究』の論文も読んでためになった。第一次世界大戦の従軍者という存在が2009年にこの世から消えたそうですよ。