イベントレポートのおしごと

2月末と4月に書いたものを今さらながら。

東京国際文芸フェスティバルでのレポート記事(公式Facebookページに掲載)がきっかけで書かせてもらいました。

 

イベントレポート:『きっとあなたは、あの本が好き』発売記念都甲幸治×藤野可織トークイベント | 立東舎


イベントレポート:『ネコマンガ(●ↀωↀ●)✧ コレクション』発売記念 杉作×川原和子トークイベント | 立東舎

 

『キャロル』、車内からの追憶の果てのブラックアウト

 『キャロル』(2015年)を観ていて、劇伴音楽のひとつがミニマリズム風だったのでふと『めぐり合う時間たち』(2002年)を憶い出す。『めぐり合う時間たち』ではフィリップ・グラスの音楽が使われていた(『キャロル』の方の音楽はカーター・バーウェル)。自分らしさや同性愛のテーマを扱った先行作品として言及しているかのようだ。*1 この映画の音楽はぼくが作品に没入できたひとつの理由だと思う(ミニマリズム風以外のも好き)。ちなみにグラスっぽさを感じたきっかけとなった曲はこれ。


Carol Soundtrack - 20 "The Times"

曲名に唸るばかり。というのは『めぐり合う時間たち』の原題がThe Hoursだから(もちろんこれは『めぐり合う時間たち』が参照項とするヴァージニア・ウルフMrs Dallowayに当初つけていたタイトル)。

 

 でも、それ以外でも、たとえばこの映画の優れた映像表現に強く惹きつけられた。そのどれもが、ひとりの人間が自分らしく生きようとする様や二人の人間の心が結びつく瞬間といった、人の生における尊さを描くことにつながっているように感じた。以下、ネタバレを含み、長いです。

 

■無人の車内からのショット

 劇中、車内から登場人物(あるいは登場人物が乗っているもの)を映したショットがいくつかあるのが気になった。誰かその光景を観ている人間がいるわけでもなく(つまり、主観ショットではない)、また三人称的な客観的映像としては不自然だ(車窓越しの必要性がない)。

 

 この〈無人の車内からのショット〉(もっと良い言い方はないものだろうか……)を理解するためにはこの映画の構造を確認する必要がある。この映画は大雑把に見取り図を描けば、【①レストランでのキャロルとテレーズの食事→②ふたりの出会いから離別まで→③レストランで二人は別れて別々の用事に向かったが、テレーズは抜け出してキャロルに誘われた会食に向かう】という、【①現在→②過去→③現在】という往還の時制になっている。〈無人の車内からのショット〉がこの②に含まれていること、そして①から②へと移行する際に車に乗ってるテレーズが車窓越しにキャロルを眺めていることの二点を見逃さなければ、この〈無人の車内からのショット〉が巧みな映像表現であることが諒解されよう。②自体は客観的な過去の再現(そこにはテレーズが目撃することのできない場面も含まれている)となっているが、この無人の車内からのショットが挿み込まれることによって、テレーズの主観性が画面に滲むのである。すなわち、①において車からキャロルを眺め、過去を想起し始めるテレーズの情動がそのシーンには顕現しているのだ。ここではそのシーンごとの情動の中身を問わないこととしよう。

 

 それとこの車内関連ですごく巧みに時間と空間をつないだ編集があったはずなんだけど、失念した。悔しい。

 

■視線と鏡

 この映画のフライヤーには視線に注目した賛辞が散見される。表現を抜き出すならば、以下の4つ(29人中だからそんなに多くもないか)。

 

「視線の交わしあい」(蓮實重彦

「「視線」がすべてを物語る」(映画.com編集部)

「からみあう視線」(余貴美子

「二人の目の演技」(ELLE コンテンツ部編集長 坂井佳奈子)

 

たしかに、ふたりが初めて出会うシーンをはじめとして、ふたりの視線は重要。だけども個人的には映画における視線の交差には食傷気味というのもあり、またこの作品で気に入ったシーンはもう一手間かかっていると思ったので、ここで少々書く。

 

 ぼくが美しいと感じたシーンのひとつはベッドシーンの前の鏡台の前に位置するふたりを映したもの。鏡台に座るテレーズに背後からキャロルが近づき、肩に手を置く(この手を肩に置くという動作というかボディタッチがところどころでテレーズをドキっとさせていることについては後に触れる)。ここでテレーズは「年越しはいつも独りだったけど、今年は違う」と言うーー鏡越しにキャロルと視線を交わしながら。この会話がきっかけで(もうちょっと言葉を重ねてたっけ?)、キャロルはテレーズにはじめてキスをし、そのままベッドシーンに移る。おそらくは直接に視線を交わしたのではそうはならなかったとぼくは思う。鏡越しだと照れや恥じらいが邪魔をしないというか。鏡の存在がシーンをロマンチックにすると同時に、リアルさを醸し出している。

 

 ただし、この美しさは残酷さも伴っていることが後で判る。鏡の前に位置する二人の女性ーーその構図はキャロルが娘の髪を整えるシーンと対応している。作品終盤において、キャロルは自分らしくいることを選び、娘の親権を父親に譲るのであるから、この鏡台前の対応が強調するのはテレーズと結びつくことが娘を失うということである。じっさい、テレーズと体の関係になったのを夫が雇った探偵(?)が盗聴・録音し、それが親権争いの際に不利な証拠(=同性愛の性向が娘に悪影響を及ぼすという意見を司法が認めている)となるのであるから、テレーズと娘が二者択一であるのは容易に諒解されよう。

 同様に視線と鏡にさえぼうさん(@saebou)が言及しているのをタイムラインで見かけた。

「映るもの」で言えば、テレーズとキャロルが中にいる車のフロントガラスに映り込む空の雲の動きが良い。

 

■最後のブラックアウト

 さて、その娘を失う決め手となったテレーズとキャロルのベッドシーン。こうした官能的なシーンに対する感受性の乏しいぼくはカメラの動きが良いという感想ぐらいしか持つことはできない(「すごく良かった」という稚拙な感想に加えてという意味で)のだが(首もとの香水を嗅ぐシーンも「すごく良かった」)、ひとつだけ見逃せないポイントがあった。それはこのシーンのフェードアウト。あえぎの音声をフェードアウトさせてブラックアウトさせる様は正直に言って少し滑稽にも思えた。それまでがついに結びついたふたりの幸福に満ちたシーンであっただけに。

 だけども、結末に至ればその意図は分かった。パーティーを抜け出してキャロルが誘っていた会食に到着したテレーズ。テレーズとキャロルの視線が交わり、キャロルが笑みを浮かべる(この笑い方がまたすごくよい)のだが、ここでブラックアウトするのを見逃してはいけない。このブラックアウトによってラストショットとベッドシーンは文字通り(映像通り)結びつき、この視線の交叉がふたりの愛の確認であることが観客に示されるのである。

 

■マニキュアの有無

 同様に反復が巧みに使われた細部としてはマニキュアの有無がある(これはすごく分かりやすいし、公式サイトをのぞくとネイルサロンとのタイアップがある!)。キャロルの綺麗なマニキュアにテレーズが魅了されているようなシーンがいくつかあり、それは肩に手を置くボディタッチとの重ね技なので、ふたりのセクシュアリティと緩やかにつながっているモチーフだ。見逃してはならないのは、ホテルにテレーズを置き去りにし、しばらく連絡を取らないことを求めたキャロルがマニキュアを外していること。テレーズは自宅に帰った後、言いつけに従わずにキャロルに電話をかけてしまう。電話に出たキャロルは相手がテレーズだと分かり応答をしない。後ほど分かるが、その際のキャロルは夫側(夫の両親を含む)に精神療法による同性愛の「治療」を強要されている(両親が「医者」と呼ぶのに対して、キャロルは「精神療法士」と呼び続けるところで抵抗が表現されている)。そんなキャロルのマニキュアなき指先を、電話のシーンは映し出すのだ。そして映画の最初と最後の現在時制において、テレーズと再会したキャロルの指先にはマニキュアが塗られている。

 

■オープニングのショット

 オープニングショットは地面、というか側溝の蓋っぽいもの。波打っている格子状のもの。キャロルがテレーズの美に対して「天から落ちた人」と言ってることに連関したショットだろうか。カメラが動いてなかなか登場人物を把握できないところでちょっと前に観たダグラス・サークの『天はすべて許し給う』(1955年)を憶い出した。メロドラマをこれから描くという宣言として受け取れる。もちろん家庭を捨てて、恋人を取るという点でも重なるが、それは恋愛モノだから割とかぶるか。だいたい『天は〜』の方の家族は捨てても構わないように最終的には描かれているし(笑)

 そういえば、舞台設定は1950年代ニューヨークだけども、作品内では時代に一切言及しない姿勢は高く評価したい。言うまでもなく、普遍への意志として受け取れる。

 

 最近、映画を観るたびに「尊い」の一言で片付けてしまいがちなので、今回長文をしたためた。記憶のみを頼りに書いたので、事実誤認がないかだけ心配。

 

 配給会社を同じくする(ファントム・フィルムさん)映画『蜜にあわれ』についても小文を書いておりますので、どうぞ。→

東京国際文芸フェスティバル - スクリーンについさっきまで映っていた人物が、目の前に現れたらどれだけ胸が高鳴るだろう... | Facebook

 

追記:ツイートを引用したさえぼうさんが『キャロル』についてご自身のブログでも投稿なさっていた。マニキュアの部分、被ってしまったのだけど、夫のもとでのキャロルは「ツメの手入れをきちんとしていない」とし、「キャロルの生きるやる気の度合いが、ツメの手入れで表現されている」とのさえぼうさんの読みが正しいと思う。女性のおしゃれをわかっていないのがバレてしまった。→ 

画面の全てが女の心を映す〜『キャロル』(ネタバレあり) - Commentarius Saevus

*1:サウンドトラックにおけるグラスっぽさはCarol | Film reviews, news & interviews | The Arts Deskでも言及されている。

近所の桜は安堵色

 近所の土手沿いの桜が咲き誇っている。冴えないこの町の割にはやはり並に綺麗だけども、感嘆というよりとにかく安堵の思いがするのだった。ピンクの提灯や屋台の騒々しさと、陽光を受けて冬を脱出したよろこびを表さんばかりに鮮やかになっている雑草の緑と桜色のコントラスト。どこでも見受けられそうな景色だけど、そこはかとなくこの町っぽさが入り込んでいるのが不思議。
 小説だとこの景色を青山七恵さんが『ひとり日和』に描き込んでいる・・・と思ったら勘違い。主人公の知寿(ちず)は3月にこの場所を見て、一ヶ月後には桜が満開だろうと思っていたのだった。

 日曜、東京に向かう東上線は混んでいた。・・・(中略)・・・一両目の車両に乗り込み、運転席のすぐ後ろのガラス窓に顔をくっつけて、外の風景を眺めた。 ・・・(中略)・・・岸辺には、まだ茶色い枝を伸ばしただけの桜並木が細々と続いている。あと一ヶ月もすれば、花は満開になって、わたしはそれを満員電車の中から眺めるのだろう。腕時計をして、きちんとパンプスを履いて、黒いかばんを持って。(167頁)

 
知寿はこの眺めを電車の中から見ている。川を渡る線路の途中なのだ。この電車に乗っているという状態、ぼくは青山七恵さんにとって重要なモチーフなのではないかと睨んでいる。
 そもそもこの作品において鉄道が無視してはいけないことは自明じゃないかとの反論もあるだろう。知寿はキオスクで働くようになり、そこで出会い後に彼氏となる藤田くんは鉄道整理員だし。いやいや、一番重要なのは知寿が転がり込んでいる吟子さんの家は線路のすぐそばであることだ。だから、この物語において鉄道が重要なモチーフであることは誰の目にも明らかだ。
 でも、やっぱり言い添えておかなきゃいけないことは、鉄道は何よりも移動を伴うものであること。吟子さんの家だって線路から近いものの、すぐに電車に乗り込むことができないのが特徴だ。ここでこの作品における鉄道や移動のモチーフを分析することは避けたい。それよりも、愚直に、そのモチーフを作家本人の経験に帰してみたい。
 青山七恵さんは埼玉の出身だ。たしか熊谷のはず。ぼく自身が埼玉の住人であるから、自分の感情を青山さんに読み込もうとしている節もあるだろうが、やはり埼玉人にとって鉄道の経験というのは重い。大雑把に言ってしまえば、移動にものすごく時間がかかること――この経験がある種の時間感覚の形成に寄与しているのではないだろうか。さらには都内に住んでいる人間とのその経験の差というのはもっと意識されて然るべきだ(このへんはぼくの私的な感情も昂るポイント)。「郊外の経験」と言えるだろうか。そこにはそこはかとなく日本における階級の問題が潜んでいるような気もするし、さらには「マイルドヤンキー」などに代表される非都内の消費形態の分析において注目されてきている状態の一部でもあるだろう。ぼく自身も大学に入ると、「キャンパスまで時間がかかってしょうがない」と不満を漏らす良い家庭に生まれた同級生の通勤時間が自分の半分程度であったことに非常にショックを感じた。
 それはさておき、昨年の6月に作家ご本人にお会いする機会に恵まれたので、この鉄道の経験について実は聞いてみていたのだった。当たり前と言えばそうなのだが、本人にとってはそんな重要ではないそうだ。ま、こういう、本人が気づかずに書き込んでいるモチーフを拾っていくのが大事だよね、とか言っておくけれど、他の青山さんの作品でそんなに鉄道が重要なのあったかなあ・・・(移動ということで言えば、「かけら」は行き帰りのバスと帰りに父親と乗る電車があるけれども)。ちなみに『ひとり日和』で描いた某駅(一応隠しておく)は、青山さんのお友達が住んでいたのだそう。
 諸々の手続きをすっ飛ばして想像するに、『ひとり日和』の知寿とは「地図」でもあるのだろう。移動しながらたくさん考えを巡らして、行った先でいろんな経験を積むと自分自身の地図ができあがっている、そんな生きることの素晴らしさを主人公は味わっているのかも。
 
 とか書いているうちに、それはそれは強い風が桜を散し、その花びらが家の前に溜まり、また書き足しているうちにその溜まった花びらもどこかに消えてしまい、土手を見にいけばいくぶん緑が目立つ桜の木がそれでもまだ人を楽しませようと、人に向かって吹く風に花びらを乗せてみているのだった。
 

 と書いておいて投稿しないでいるうちに、八王子では雪が降るほどに東日本は冷え込む。うちの真上の空からはみぞれ。朝起きて雨の音が変なことに気づき、雨戸をあけてねむけ眼で外を見てみれば、雨にしては落ちるスピードが遅いし、なんだかダマが大きいことにパニックに陥って、肺に送られてくる空気のあまりの冷たさにやっと、ああこれは雪か、と把握。ニュースでやっていたように4月の雪は5年ぶり。思い出すよ、大学1年生の新歓帰りを。最寄り駅から、キャンパスライフに浮かれた足取りで雪を踏みしめて帰った。脳内で再生される映像はまさに雪に冷やされた空気しか醸し出せないあの凛とした暗さ。なんでその光景がしぶとく記憶に残っているかは分からないのが不思議。雪が降っている情景も見たはずなのに思い出せない。
 川上未映子さんの『魔法飛行』(中公文庫)を読んでいたら松任谷由実の「守ってあげたい」が言及されていて、久しく起動させていなかったiTunesで再生。すごく合う、この夜に、冷たいこの夜に。そんなこんなでこういう諸々のことがマッチングする瞬間のみを当てにして明日もがんばろうと元気を捻り出す。

2014年に御恵投頂いた本

 日を跨いで2015年度へとがらっと変わってしまったけれども、いまさらの、2014年度に御恵投頂いた本の紹介を。若造に恵んで頂けた以上、宣伝するべきだろう(それ以上によく学ぶことが求められているのだろう・・・)と思っているので。ほんとうはより人の目につくTwitterで呟きたいのだけど、去年はタイミングを逃してしまってばかりだった。

 

イギリス文学入門

イギリス文学入門

 

 見ての通り、イギリス文学の概説の本。学部4年時のイギリス文学(史)を学び始めたばかりだった自分に贈りたい一冊。そのときに手に取った本ってあんまりぴったり来なかったんだよねえ。イギリス文学史本のやっとの更新ということで貴重。もちろん、今でも、これからでも、ずぅっと参考になる充実した記述ばかり。コラムやテーマ記事に読み応えがあります。

 

一九世紀 英国 小説の展開

一九世紀 英国 小説の展開

 

 必要な章だけコピーした数日後に、頂く運びに。下さった方が別の機会に、「僕の全ての関心があの章に詰まってます」と発言していたのを耳にした。

 

読むことの系譜学 ロレンス、ウィリアムズ、レッシング、ファウルズ

読むことの系譜学 ロレンス、ウィリアムズ、レッシング、ファウルズ

 

 卒論でお世話になった先生の初単著です。自宅に送って頂くのも、「謹呈栞」(?)が入った形も初めての経験でした。この本についてはもっと読み込んでから、書評めいたものを書きたい。20世紀以降の英文学を研究する人間のお手本となるような論考だと思います。ぼくのお気に入りは第3章「ジョン・ファウルズとロレンス−『ダニエル・マーティン』におけるインターテクスチュアリティ」。

 

 ということで計3冊。各書ともに内容にあまり触れずの紹介であるので、時間を見つけて詳しく書評してみたいところ。

 

 おまけでこれも。

学生による学生のためのダメレポート脱出法 (アカデミック・スキルズ)

学生による学生のためのダメレポート脱出法 (アカデミック・スキルズ)

 

 これは御恵投というか、なんというか。自分がほぼ携わっていないのだけれど、名前が載ってしまっている本です。おそらく関係したのは1、2ページ分だけ? お知り合いの方々がご尽力なされました、ほんとうにお疲れさまです。 
 ピアメンター制度が積み上げてきた叡智が結実した一冊なだけあって、数あるレポート本の中でも学生がまず手にするべきのはこれだと信じてやみません。自分のレポートのどんなところが「ダメ」なのか、どうしたら「ダメ」から脱出できるのか。とりわけ後者において卒論レベルにおいてまで役立つ本なのではないだろうか。スケジュール管理方法など、経験則で学ぶしかなかったような知恵が載っちゃっています。

こまごまと2月のさいごの8日間のことを

 21日、なにか読もうにもどうにものめり込めないので、『あなたを抱きしめる日まで』(原題はPHILOMENA)を鑑賞。夏の学部ゼミ合宿で『小さいおうち』とか『贖罪』に触れながら興味関心の紹介を行った際にM先生に勧められていたのだが、機会を逃していた。準新作扱いになっていたので、やっとこさレンタル。たしかに、嘘(虚構)と老いの系譜に連なる作品であった。
 序盤はなかなかミスリーディングが巧みな作品だと思わされた(ミスリーディングといえば、邦題もそう?ちなみにDVDに入っていた予告編では『それでも夜が明ける』が。これも芸のうちか・・・)。
 批評的なことを言えば、反射して映るもののモチーフが重要そう、かつ美しくて「情景」と言うべき映像もあった(修道院の門を車でくぐるショット×二回)。そうそう、巧みなのは反復もか。主人公が二回訪れることになる場所があるのだが、そのシークェンスの1回目でドアが閉まるショットがわざとらしくて気になったが、先読み通り二回目で意味を持ったということで思わずにやり。ここまで抽象的に書くと、なぜか書いてきたことが自然と繋がる(あるいは書いて初めて自分が見出した複数の事態の間の繋がりが見えてくる)わけで、「ミスリーディング」「先読み」という言葉を素直に使った後に、この映画の中に「フラッシュフォワード」(ひとつ前のワイズマンのフラッシュフォワードに関する日記を参照)が挟み込まれていたことをはたと思い出すのである。正確に言うならば、「後に主人公が知る/見る過去の事実の先取り」であるので、純粋なフラッシュフォワードではないのだけれども。なにかとっかかりのある作品に触れたあとで、何気なく手に取った作品がこういう不思議な「つながり」を持っているというのは稀にあって、いっつも不思議だなあと思う。論じろってことですか、神様ん。
 ちなみに、本作品は事実に基づいた作品。そのことを踏まえると、最後の「赦し」と「罰」の場面がなかなか強烈。や、良い映画ですよ。全体的にミステリ仕立てかと思いきや、コメディを挟みつつ、ヒューマン・ドラマへと変貌していくので、ほどよい緊張と弛緩の塩梅といったところ。

 22日、日本文学全集刊行イベント@本郷。
→別稿で書きます。

 23日、久しぶりに大学キャンパスへ。このごろは家とその周辺で活動していることが多くて、その環境の中で、なんか作業効率が悪いなあ、なんて思ってたりもしたのだけど、キャンパスついて諸々の雑務をこなして、ふぅと息をつけば作業量のわりに全然時間が経っていないことに驚く。電車の時間をかけても、大学に来るべきか、ううむ。

 夜は急遽、むかし入っていたサークルの先輩(5人)や同級生(1人)がやってるバンドのHigh-Tunesのライブ@渋谷Lushへ。久しぶりに煙たい空間。危うく「副流煙で薫製」にされるとこであった。
 軽やかなリズムにつられて体を揺らしているうちに、アルコールが回る。声をかけてもらったが、酔いのせいで妙なやりとりにはなっていなかったか心配。「やつれたね」と言われる。

24日、某出版社のアルバイト面接へ。そののち、知り合いと飯田橋で待ち合わせ。時間が余っていたので、神楽坂を遊歩。ランチで利用したいお店がたくさん。


25日、比較的近くに住んでいる院の先輩お二人と食事。中華を食す。小平英文学会?Oさんは18世紀文学研究(スターン)、Mさんは19世紀末の思想とワイルド研究。ほんとうに優秀な方々で、話はすべて勉強になる。留学のこと(特にアメリカ事情)や修論のことをお聞きしたり、Mさんのちょっとマゾヒスティックでやんちゃな飼い犬やカフェでの勉強の話題を。とりわけ世紀末の話は聞くたびに勉強になるなあ。イギリスの思想・哲学もきちんと押さえなければ(ぼくって押さえないといけないことだらけ)。
 店員のおっちゃんに「疲れた顔してんね」と言われる。

26日、美容院へ。さっぱり。デコ出し。前髪下ろしてると福が入ってこないって中華屋のおっちゃんが前日言ってたのはあまり関係ない。
 のちに、新興宗教の講演会へ(文字通りではありませんよ、一応)。

27日、社会人のKさんとお食事。西麻布で串焼きを食す。通りからは発見しづらい店構えにいささかたじろぐ。牛、豚、鳥とあまりにも旨い肉だったので、自分の馬鹿舌が溶けてなくなってしまうかと思った。そして、締めに食べた親子丼は頬に穴をあけかねないダシの上品さと炭火の香り。ああこんな稚拙な文章でも書きながらつい涎がでる・・・。食事で「体力」を、会話で「知恵」をつけて頂きました。ごちそうさまでした。
 二軒目は甘いものをということでシナボン。なんだか悪さを働いているような気分になりましたとさ。

28日、ここのところ出かけっぱなしだったので、家で休養。やはり外にいるときより、捗らない。
『ロレンス研究』所収のS鳥さんという方の『チャタレー夫人の恋人』論を読む。『チャタレー』における第一次世界大戦の外傷化された記憶を読み込むというもの。本人の「誤読」体験が挟まれていて、そしてなんとそれが論につながっていて、ぐいぐいと読まされううむと唸らされるおもしろい論文であった。自分の研究的には「Postmemory」なるものがきちんと概念化されていたことを知れたのが収穫。まあ、「言うほどのことじゃないけど」感もある概念というか、名付けたあとどうすんの?というところが腕の見せ所だろうか。単なる経験/非経験の溝に加えて、「世代」の問題がより重要になるのかしら。これは自分の人生においても重要なテーマだ。
 S鳥さんの論文は読んでいて知識的に勉強になることが多く、その点では『英文学研究』の論文も読んでためになった。第一次世界大戦の従軍者という存在が2009年にこの世から消えたそうですよ。

集まって読書、寄り合って映画

 7日、自分で企画した読書会@三田へ。その名も「20世紀英文学読書会」。細々とやっていく予定です。
この日は初回で、D.H.ロレンスの"England, My England"の1915年版(狙ってなかったけど100年前!)を。参加者は3年生女子2人。一人はウルフ、もう一人はモームで卒論。鋭い指摘がいくつも飛び出すのでたじたじしながら論点を整理したり、しなかったり(こういうのもきっと大事)。学部の卒論はロレンス研究者に指導してもらったこともあったので、そこから仕入れた僅かばかりの知識を披露してみる。研究対象とロレンスの関係性も書きたいし、ほどよくロレンスも押さえていかねば。

 読書会後は「塾員」しか入れない万来舎で歓談。僕も一応OBですから、ふふ。この日は母校の入試がキャンパスで行われていたこともあってか(高校と大学での2ヶ所開催でなのである)、いつも(70歳くらいのおじいさんが二人でのんびりと「交歓」している)より賑わっていた。客層も若い。きっと受験生の父母に出身者が多いのだろうのと3人でいささかげんなりしながら(?)予測。この賑わいのせいで、ケーキの選択肢が少なくなっていた。ガトーショコラを後輩に譲り、ショートケーキに落ち着く。

 次回はボウエンの「幻のコー」を読むことに。今後もその時々の参加者で相談しながら、テクストを決めていきますので、もしご興味ある方がいましたらぜひ。



 13日。バレンタイン前日、13日の金曜日。学部のときに属していた映画ゼミの先輩I氏の呼びかけで「映画会」なるものに久しぶりに。主催者のお友達が6人集まり、計7人。フレデリック・ワイズマン『チチカット・フォーリーズ』@渋谷ヴェーラ。初ワイズマン。現地でゼミで同学年だったM田くんに遭遇した。
 本作品は矯正院のドキュメンタリーである、とひとまずは言える。矯正院の悪質な「実状」がスクリーン上に映し出されるわけだが、これって暴露を目的としてるわけじゃないよね、となんとなく思う。社会派的な側面があるのは否定できないだろうけども、むしろ映像とか音で「作品」として成り立っている部分が大きいと感じた。たとえば、細部を覚えていないが、食事を拒否した患者にチューブで栄養補給を図るというショークェンスに2、3回ほど挿入される同患者の納棺のシーンは大半の人間にとって最も異様な箇所として記憶されるのではないだろうか。「過去の未来」が唐突に現れるという編集ってあんまりないよねえ。フィクションでもできるのだろうか(あるいはフィクションではそのように編集して何かおもしろいところはあるのだろうか)−−とか書きつつ、ああ「フラッシュフォワード」か、と思い出す(や、でも、ちょっと違う?)。具体例は思いつかないけど、というか思うつかないから物語性を排したドキュメンタリー映像ならではの「物語」とか言えちゃうかしら(適当)。患者が脅迫的に語る内容も、その異様さ(この言葉なんだか便利だな)に慣れてしまえば、耳に心地良くなってしまうのもこの作品の醍醐味なのだろうか。

 映画の後はご飯を食べに。ビールの種類の豊富なお店がすし詰め状態だったのでワインのお店へ。やっと主催者I氏がそれぞれの参加者をどうやって出会ったかを含めながら紹介し始める。そうそう、僕とI氏は映画ゼミの初期段階で同じグループに入っていたのだった。最初の発表ではI氏が『七人の侍』を、僕が『オズの魔法使』を担当した。そのときにS先生がまとめとして、「ぼくたちの人生って『七人の侍』みたいな完璧な人材を伴うよりも、『オズ』みたいな油の足りないギスギスしたブリキとか臆病なライオンみたいな仲間とうまくやっていくもんなんですよ」という話をしたことを自分のことかのように得意げに披露するI氏。たかだが紹介で喋り過ぎと周りに釘を刺されていた。
 ほろ酔いしながら、I氏の8月(!)の失恋をひとしきりみんなでいじった後に、解散。ぼくは池袋で終電を逃す。